これが素人のやり方

革靴・革ジャン・バイク・ジーンズ等々、自分の好きなものを細々と発信していきま〜す

チラリズムの可能性

先日あった話。

 

わたしが勤務している工場の所長はとても若い感性をお持ちの方です。すでに60歳を超えているのにもかかわらず、話題のお笑い芸人やyoutuberは欠かさずチェックしていています。好奇心旺盛であるため、常に新しいことを取り込んでいこうという意欲を強く持っておられます。

 

わたしが先輩社員に仕事を教えていただきながらメモを取っていると、所長が通りかかりました。そしてメモを取る行為に対し、「スマホで動画を撮影した方がいい。映像の方が情報量が多い上に、メモを取る手間が省けるから効率的だ。」という旨のアドバイスをいただきました。先輩社員の手前教えていただいているときにスマホを出すのは失礼だと思ったのですが、所長という、さらに上の立場の方にアドバイスを頂けたので遠慮なく動画を撮影することができました。

 

製造業界、特に自動車関係では、古くから三現主義という考え方が浸透しています。現場、現実、現物という三つの「現」を重視した問題解決を重視するというものです。

様々な情報メディアの中で最も「現」に近いのは、連続的な視覚的情報と音声を記録した、映像メディアでしょう。伝統的な考え方と照らし合わせても、メモを取ることよりもビデオで記録する方が合理的で適切だということがわかります。

 

それでもわたしはラジオが好きですし、本が好きです。圧倒的に情報量が少ない、非効率的なメディアが好きです。その理由を整然と代弁するような文章を鷲田清一 著『ひとはなぜ服を着るのか』のなかに発見しました。

 

性器を見たいという高校生の夢と、推理小説の結末を知りたいという読者の欲望と、究極の真理に触れたいという哲学者の欲望が同形のものだと指摘したのは、『テクストの快楽』 のロラン・バルトであったが、そういう結末、そういう隠された真理へといたる回路が設定され、それがたえず宙吊り(サスペンス)されていることで、これらの快楽はなりたっている。

鷲田清一 著『ひとはなぜ服を着るのか』 p197 ちくま文庫

 

「現」(上記の文章で言う「真理」)に一番近づくことができるのは映像メディアです。ただ、そこに宙吊りにされた快楽はあるのでしょうか。情報を得るという目的を満たすためだけの、機械的な作業に見えます。

 

わたしは情報を求めているのではなく、宙吊りにされた真理へと至る隠された回路をなぞることで得られる快楽を求めていると言えます。

 

裸体という真理ではなく、裸体へと至る隠された回路の発見に喜びを覚えるのはこのためですね。男性ならば共感できるのでは、、、?