昔話
私は文学部の倫理学科出身です。
倫理学は、世の中に物質的な幸福を与えることはできません。実学ではないのです。
それでも倫理学は、世の中の至る箇所で根を張っている学問だと私は感じています。企業倫理、医療倫理、環境倫理という具合に、倫理の活躍の場は多岐にわたっています。
私はその中で医療倫理を専門にしていました。安楽死、終末期医療の問題、クローン技術、生殖医療(代理母出産など)がその主な範疇です。
妊活、終活という言葉をよく耳にするようになりました。人の生命に関わるような重大な出来事をここまでポップにするのは私にとって大きな抵抗です。真摯に向き合うことは大いに結構ですが、ポップにして商業的な香りを出すのはいかがなものかと思います。
人の生命に関わるようなことを流行の波に乗せ群衆心理を煽り、商業としてさせることは果たして「正しい」のでしょうか。妊活がさらに進んだ先にあるのは出産の商業化、いわば金銭目的の代理出産であり、終活がさらに進んだ先にあるのが安楽死であることを感覚しているでしょうか。
そんなことを考えて過ごした大学4年間、他学部の友人にはそりゃあ白い目で見られました。もちろん。
アタックチャンスを無駄にした
モーニングルーティーンやナイトルーティーンを公開する芸能人がたくさんいます。
わたしはそれらをみることがすごく好きです。人が家で何をしているのかってすごく気になりませんか?
普段は会社の人としか顔を合わせないのですが、たまに電車に乗って遠出をすると、たくさんの知らない人と顔を合わせます。その知らない人たちが全員一日24時間を割り当てられていて、好きなようにその時間を使っていると考えると、頭がぼうっとしてきます。
割と親しい人にさえ、その生活の全てを曝け出すことはありません。恋人であろうが、家族であろうが、見せている面と見せていない面が必ず存在します。24時間365日、すべての時間を共に過ごすことなどありえません。
晒されている部分と、隠されている部分。「アタック25」というテレビ番組の最後に、回答者が獲得したパネル以外の部分が隠された映像が流れ、その映像がなんなのかを言い当てるコーナーがあります。獲得したパネルが多ければ多いほど、映像の全貌を想像することが容易くなっていく仕組みです。
どんなに親しい相手にも、25枚のパネル全てを開放することはありません。必ず一部分は隠されています。ただ、他の大部分が開放されているために、その一部分は想像に容易い。脳内で補完することによって、その人の全貌を理解しているって感じです。
補完作業が少なければ少ないほど、正確にその人の全貌を捉えることができます。パネルが一枚しか開放されていないのに全貌を捉えろっていうのは無理な話です。想像力に頼る部分が大きすぎます。一度会ったことのある人にいい人そうだなぁという印象を受けたとしても、それはほんの一部分のパネルがめくられたということに過ぎず、それ以外のパネルを開けていくにつれて最初の印象とガラッと変わってしまうことなんてざらにあります。
そして、長い時間を一緒に過ごしていく中で徐々にパネルを開放していき、全貌を掴みかけていた人でも、それまでの印象を覆してしまうような隠された部分があるかもしれない。パネル一枚分でも、それ以外の全てを覆してしまうようなパワーを秘めている可能性があります。
人付き合いがうまい人って、多分このパネルの開放の仕方がすごく上手なんだと思います。解放するにふさわしいパネルを相手によって選び分ける能力が高く、相手の想像力を利用して最大の好印象を与える。こんな作業を意識下か無意識下で行なっているんだと思います。
普段表舞台で様々な姿を見せている芸能人が公開する家での私生活は、表舞台での印象を覆すものであったり、そのまま補強するものであったりと様々です。
自分をより良く見せようとしてパネルを慎重に選び、開放しているものといえます。やはり芸能人とだけあって、すごくうまいと思います。
わたしはどのパネルを開放すれば相手に好印象を与えることができるかわからないまま25年間生きてきました。手当たり次第開放した結果、嫌われることも多々ありました。もう少し器用に生きていきたいものです。
そこはかとない悲しみの雄弁
時計の針をゆっくりとなぞった指の腹から昔のにおいがした
もういちどなぞろうと伸ばした手のむこうにある悠久に目が霞んだ
あの時計の針にふれることは二度とないだろう
仕事中に5分ぐらいで考えました。ぼんやりとした言葉をつなぎ合わせて、よくわからない終わり方をすればなんとなく詩っぽくなるんですね。何もなくてもできるし、もしかしたら本当にちゃんとした詩ができるかもしれないし、会議中にはもってこいの時間潰しです。
またそれっぽいことを思いついたら書いてみようと思います。
タイトルもいま適当にそれっぽい言葉を繋げました。意味ありげって面白い。
年輪
昨日、革靴のメンテナンスを実施しました。
メンテナンスなんてかっこよく言っているけど、実際は汚れを軽く落としてオイルとか墨塗り込んだだけなんですけどね。
革靴のいいところは、使えば使うほど、くたびれればくたびれるほど愛着が湧いていくところです。自分だけの汚れ方をそれぞれが見せてくれます。
わたしはバイクに乗るので、クラッチ操作によって左足の甲部分がどんどん汚れていきます。ライフスタイルの一部を靴が表現してくれているのです。ああ、かわいいなぁ。
耳のつぶれた柔道経験者、手のシワに黒ずみが染み込んだ整備士、、、 身体に刻まれたその人の経験は、雄弁でとてもかっこいい。そんなかっこよさが革靴にはあると思います。
一番古いものは、今から5年ほど前に買ったレッドウィング ベックマンです。新品の頃は足から血が出るほど革が硬く、それでも慣らすために無理やり歩き続けました。今ではもう、ほぼ自分の足です。バイクで転んだ時の傷もしっかりと刻まれていて、自分の過ごしてきた時間を体現してくれています。
もし自分が明日死んだら、祭壇に革靴並べて欲しいです。生きてきた証としてそれが一番適当なのではないでしょうか。
出会い頭の
先日、25歳になりました。四捨五入して30歳、もう本当に大人です。いよいよ大人です。
誕生日の当日は仕事がお休みだったので、バイクで服屋に出かけました。以前から訪れようと思っていた2、3店を回るもどこも休業中。ちゃんと調べてから行けばよかった。
コンビニに駆け込みどうしたもんかとアイスコーヒー片手にタバコを吸いながら思案します。初日からこんな滑り出しでは、25歳もパッとしない一年になってしまうのかなぁ。いや、まだ今日は終わっていない。なんとかここから巻き返そう。そんな焦りから、コンビニの店員さんに、危うく「俺今日誕生日なんですよ」と意味もない報告をしそうになるのをグッと堪え、再びバイクにまたがります。
目的地は、その場で調べた服屋。少し遠いけど、もう後には引けません。実りのあった一日にするため、実りのある一年にするために時間や労力を惜しんでいられません。
そのお店には、正直めぼしいものがありませんでした。ああ、ここまでか、、、と落胆している様子を察してか、店員さんが話しかけてくれました。
「どんな感じの狙ってます?」
誕生日にふさわしい何かグレートなやつを。心の中でそう嘯きつつ、
「アロハシャツとか無いですかね〜」
と、こたえてみます。店頭にないんだからないに決まっているだろうと思いつつ。
「ありますよー。まだ時期じゃないんで並べてないんですけど、入荷してますね」
あらやだ!運命の予感!店頭に並んでいないものを見せてもらえるなんてスペシャルじゃない!?
興奮を隠しつつ見せてもらうも、あまり好みではありませんでした。グッバイ。君は僕の運命じゃない。
「生地とシルエットは好きですけど、もうちょい柄が派手な方が好みですねー」
と、こなれ感を醸していると、
「あ、じゃあこれどうですか?売るつもりじゃなかったんだけど、親戚の着物をリメイクしたアロハがあるんでみてみます?」
あら!あら!すっごい!売り物じゃないのに見せてくれるなんて、本当にお洒落さんになった気分!
見せてもらったものは、もちろんタグなんてついていない、本物の着物の生地を使用した素晴らしいアロハシャツ でした。今まで見てきた、触ってきた、着てきたものとは一線を画す高級感。まさに一目惚れ。実は、アロハシャツの原点は、ハワイ在住の日系人が着物を現地で着用されていたシャツにリメイクしたものだと言われいています。そのような意味で、由緒正しい、本物のアロハシャツです。決してpretenderではない、本物。すごく綺麗だ。
散々迷わせていただき、2着購入。今年は良い年になりそうです。
帰り道、タクシーと接触事故を起こしました。やっぱダメかも。
常に一般常識とのバランス感覚を保っていないといけない
ルビンの壺と呼ばれる図形はご存知でしょうか。
白塗りの部分に注目すると壺のように見え、黒塗りの部分に注目すると向かい合った人の横顔い見えるという有名な錯視図です。
ひとは視覚的情報を脳内で 対象/その背景 に無意識で分類し、処理するみたいです。
対人関係でも、この 対象/その背景 という分類作業は行われているように思います。まず対象となるのはその人の顔であったり声、匂いではないでしょうか。直接的な情報であり、瞬間で 快/不快 の判断を下せる情報が対象にあたります。
そして背景となるのは服装や髪型、皮膚の色といった部分であり、それらを 快/不快 に分類することは個人の知識や経験に準拠すると言えます。
例えば、顔にタトゥーが入っている日本人男性を見るとわたしはその人を一般的なサラリーマンではないと判断します。日本人はまだタトゥーに公共性を認めていませんし、ましてやそれを隠すことができない顔に入れるということは、スーツを着て電車通勤をする一般のサラリーマンである可能性は極めて低い、と考えるからです。知識や経験を頼りにその人の背景を炙り出す作業を無意識に行っているわけです。
服装に関しても同じことが言えます。平日の昼間にボロボロのTシャツとジーパンで公園を歩いている人はおそらくサラリーマンではないと判断してしまいます。それも知識と経験に依っています。
対人関係にとっての背景が与える印象は、相手の知識や経験に依存しています。自分が好きな服を着て鏡を見たときの印象は、対人関係の中で相手が抱く印象と全く違う可能性があるということです。
先日、和服のリメイク品である和柄のアロハシャツを着ていたら友人にチンピラだと言われました。アロハシャツは、日系人がハワイの気候に合わせて和服を半袖のシャツにリメイクしたものが起源だと言われています。そのことをわたしは知っていたので和服のリメイク品であるアロハシャツは、伝統の深みのような印象を覚えていたのに、チンピラって、、、。
すごく気に入っていたのにちょっと着づらくなっちゃいました。ショック。